パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

熱血「パイプ道」始末記

平井 修一

尊皇攘夷の嵐の中で、「開国して文明開化するしか日本の行方はないのだ」と説いたら長州藩の長井雅楽(うた)は殺された。正論を吐くと叩かれるのは小沢民主党と一緒だなあと思うが、神奈川県知事の松沢某のような尊皇攘夷もどきは「尊環攘煙」なのだろう。

小生は昨年2月3日に紙巻き煙草をやめ、4ヵ月後の6月3日からパイプ煙草 を30年ぶりに再開したが、先日近所の煙草屋から「禁煙したの?」と聞かれた。「パイプにしたよ」「禁煙パイポ?」「いや、シャーローックホームズ」

パイプ煙草は大学時代のマドンナの実家の煙草屋に注文している(なんたる未練!)。デンマーク製の「スイートダブリン」と米国製の「ハーフ&ハーフ」をミックスして吸っているが、結構うまい。

それにしても小生のようなガサツな人の喫煙風景はいただけない。茶道のように「パイプ道」というのはあって、優雅に吸わなくてはいけないのに、小生はそれからずいぶんとはずれている。他人(ひと)様にとても見せられない。

パイプは数本用意しなくてはいけない。最低でも5、6本は必要だ。ローテーションで使うのである。本妻、妾、婢、浮気、ツマミ食い、行きがかり・・・の順番みたいに。30年ぶりの小生は数本を(物置に「しまい無くして」)紛失してしまったから、今は3本しかないのだが、しかたがない、その1本をとって「パイプ道」の所作をする。

ブライヤーとかいうバラ科の根っ子製のパイプの木目をまずは楽しむのだ。ためつすがめつ。見たっていつも同じなのだが、「この瑕は気付かなかったなあ」なんて毎回思いつつ、「ま、いいか、人生こんなものか」と納得する。

今さらカミサンを選んだことを後悔したって始まらない。カミサンもそう思っていることだろう。ここで諦観する。パイプは人を哲学者にする。

次に穴(ボウル、燃焼室)を愛でる。穴にはカーボンというかオコゲがついている。この厚さが適切でないときはリーマーという道具で掃除する。オコゲは煙草の味を左右するから大事なのだ。

GHQのマッカーサはもっぱらトウモロコシで作った安物のコーンパイプを愛用したが、オコゲが適当につくまで1ヶ月ほど部下にパイプを預け、それから吸い口(マウスピース)を代えて愛飲していたという。

FDRルーズベルトと手を組んで真珠湾攻撃へ日本をいざない、戦端を開かすために自国民4000人を犠牲にさせたということを含めて秘密はすべてあの世へもっていった "skim the cream off"(いいとこ取り)の嫌な奴らしいやりかたである。真実を50年後でも開封すべきだった。

パイプはいろいろなことを想起させるのだ。

それはさておき、ヤニをモールなどを利用して掃除する。これが結構な暇つぶしになる。ひたすらヤニを取る。江戸時代は「ラオ屋」(羅宇屋)というキセルの掃除屋、修理屋がいたからいいが、ラオ屋も下男も女中もいない現代では自らシコシコ掃除する。

そして、きれいになったら吸い口にそっと唇を当てて吹いてみる。

いい具合なら、煙草葉を詰めるのだが、これはなかなか微妙である。スポンジケーキの要領だという。最初は固めにつき、次はそこそこ、仕上げは優しく。なんかナニみたいだ。

火は1回目は表面に刺激を与えるだけで塩梅し、2回目は本格的に、緩やかに、静かに、長く燃焼を持続させる。ほとんどセクシーである。

瞑想しながら緩やかにスーハー、そしてプハーッ! うまくいかない時もあれば、「至福の絶妙な味」を楽しめる時もある。小生の場合は性交、じゃなかった成功率はだいたい3割である。

この一連の所作をコンパニオン、茶道で言えば「茶杓」といった小道具を駆使しつつ、流れるように、美しくできる「パイプ道」を身につけるまでには数年の時間と金と品格が必要だろう。

小生はコンパニオンを紛失してしまったのでナント今は三寸釘を代用しているが、それは野趣といえば野趣ながら「邪道」で、とても「パイプ道」とは言えない。

少々いやらしい一席だったが、パイプ煙草の楽しさの一端を知っていただけたら幸いである。今のうちならアンチタバコ・シェパードに殺されることはあるまい。「ラスト・パイパー」(最後の喫煙者)なんて映画ができるかもしれないなあ。