パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −16−

JPSCはこの頃には会員数がどんどん増えて70人を超え、100名を突破するのではないかという勢いになった。その頃、シガレットを喫うと肺癌になるという話をマスコミが取り上げて、愛煙家がパイプに移行してきたのが大きい。そこで会員は100名で打ち止めとし、退会による欠員が出ないと新規会員になるのは認めないことにした。しかし100名には届かなかった。僕は昭和50年にJPSCの事務局長を引き受けた。

よし田で例会を開催していた頃、一番盛んな時期には30人ほど集まり、1部屋では入りきれないので、2部屋をつないで使った。よし田は会場として良かったのだが、そば一杯だけしか注文しないで帰る人も出始めた。

会員の古い人は、店に気を遣ってタネものの良いのや、酒を頼んでいたがね。会場を使わせて貰って、酒も呑まずにそば一杯だけで帰る人がいたのでは、店に悪いから、(会場使用のお礼に)毎回3000円ずつ包んで渡していた。

そのうちに、パイプブームが去ると、集まるメンバーが減ってきて、例会に5人しか集まらないという時もあった。人数が少ないときは、出席点を通常の1点から2点にすることもやってみた。だけど例会が成立せずに流会になったことも何回かある。

例会では、毎回、スモーキングコンテストをやるわけだが、JPSCには色んな仕事の人がいて、いずれもプロフェッショナルだ。そういう人の色んな話を聴こうじゃないかということで、年に2回ほど、話を聴く会をやった。

旅行会は設立した昭和42年以来、毎年、欠かさずやっている。以前は、遠くまで行ったものだ。当時はサラリーマンの会員が少なかったから、平日が多かった。岡部さんが企画を立てて、宿を見つける。信州などへも行ったものだ。

JPSCは10年持つかと言われていたが、こんなに長く続いているのは昭和44年11月から発刊したクラブ季刊誌「PIPE」の役割が大きいね。初回の部数は1000部で、発行費用をすべて広告で賄った。PIPE誌をたばこ屋で販売して、会員を広く募集したので続々と会員が増えた。週刊新潮の黒い報告書の名物筆者の松山荘二さんが一人でエネルギーを注いで作っていた。あれだけの編集力、筆力がある人が頑張って精力を注がないと親睦団体の雑誌は続かないね。

松山さんはPIPE誌を年に2〜4回ほど出したが、そのことがJPSCがこんなに長く存続する大きな要因じゃなかったかな。毎回、500〜600部ほど出してたばこ屋さんの店頭に置いていた。愛読している人が多かった。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ