パイプの愉しみ方

パイプの愉しみ方

関口一郎 パイプと吾が人生を語る  −15−

――JPSCの草創期はどういう状況でしたか

本保さんという方が京浜急行電鉄宣伝部に務めていたが、退職後に日本プランニングと言う会社を銀座7丁目の出雲ビルに作って、最初はそこで例会をやった。出雲ビルで例会を始めた頃は、パイプを喫いながらの雑談が主だったね。会員がパイプやたばこ関係の情報を話し、情報を交換していた。あの当時は、ミッケのパイプが持て囃された時分で、ミッケのパイプを持っていないと、パイプスモーカーの中に入らないという雰囲気だった。

当時はランブルに来る客で、菊水(銀座6丁目)を贔屓にしている人と、佐々木商店(銀座1丁目)を贔屓にしている人とが二派に分かれて、お互いに牽制しあう雰囲気があって、反目していた。佐々木でパイプを買うと、菊水派の客から軽く見られたりした。JPSCでも菊水派と佐々木派の二派が互いに反目していたね。

当時はパイプの黎明期で、「高級な銘柄の高価なパイプで喫うと、たばこが美味しい」という風潮があって、ランブルの客同士やJPSCでも高価なパイプをひけらかす雰囲気だった。今はそういうことは全くないが、ダンヒル一辺倒の時代もあったね。

そのうちに誰が言い出したか忘れたが、ただ集まって漫然と無駄話をやっているよりは、外国では長喫い競争をパイプでやっているというから、試しにやってみようじゃないかということになり、そんなことから出雲ビルでの例会でスモーキングコンテストが始まった。最初は、優勝者には賞品は出さなかった。

会が発足した昭和42年の11月11日にJPSCの第一回総会を、築地のスエヒロで開催した。メンバーズパイプをパイプ製造会社に注文して総会で会員に配った。メンバーズパイプの配布は以後6年間続いたが、財政面での問題で打ち切りになった。この総会での会員登録は31名。

翌年昭和43年3月の例会でユーズドパイプのオークションを始めた。当初は会員同士のパイプの交換会だった。出品はパイプだけで、金銭の介在無しで交換した。そのうちにパイプの出品が少なくなったこともあり、パイプだけでなく喫煙関係の品物も入って値段をつけてオークションという形式が定着した。以後、春と夏、今では1月と7月のオークションがJPSCの定番行事となった。JPSCのオークションは昔から2万円以上の値段を付けたパイプを買う人はいなかったね。会員は皆さん、たくさんパイプは持っているからね。

その後、会員が増えて出雲ビルでは例会が手狭になって、新しい例会会場を探そうということになった。菊水の内藤さんのお母さんが、銀座の蕎麦屋のよし田の女将さんと仲良しという縁で、昭和44年1月からよし田で例会を開くことになった。よし田での最初から例会は毎月1回。曜日は第3火曜日で始めた。そのうちに毎回、次の月の曜日を変えてみたりもした。しかし、曜日が変わると忘れるのも出てくるので、結局、例会は第3火曜日と、元通りになった。

出雲ビルでの例会で非公式な形で始まっていたスモーキングコンテストトライアルを恒例行事化しようと検討が始まり、スモーキングコンテストが定例行事になったのが、昭和45年1月の例会から。そして年間で成績優秀者を表彰することになった。当初は3グラムでやっていた。得点方式は、自動車レースのFI方式(1位9点、以下6位まで6点、4点、3点、2点、1点と得点)が採用になった。当時は会員に自動車雑誌関係者がいたからね。松山荘二さんも、「カーグラフィック」の創刊メンバーだったし、JPSCの会規約を作った大久保さんもモーター・ジャーナリストだった。後に例会出席者が減ってからは、これとは別に出席点を1点与えて出席を奨励した。

〔続く〕

(平成24年5月吉日、東京・東銀座 カフェジュリエで)

日本パイプスモーカーズクラブ