禁煙ファシズムにもの申す

禁煙ファシズムにもの申す

プチブル・ファシズム

神奈川県の松沢知事が検討していた屋内に関する禁煙条例は、毎日新聞で「骨抜き」になったと報道されていたので、そうかと思っていたら、単に全面禁煙でない場所が少し残されたというだけの「虚報」だった。もちろんその記事自体が「残念」というニュアンスで書かれており、新聞はあたかも禁煙ファシストに乗っ取られたかのようだ。

近ごろ、行きつけというわけではないが、月に一度くらい行っていた近所のそば屋が禁煙になってしまった。私は別に、そばを食べる間くらい、我慢できないわけではない。あるいは、禁煙ファシズムの始まる前から禁煙だった場所なら我慢できるが、単に時勢に合わせて禁煙にしたというような場所へは、信念があるから行かない。けっこううまいそば屋だっただけに残念だ。四十歳以後の私の人生は、半ばは禁煙ファシズムに狂わされたようなものだ。仮に私ががんで死んでも、それはタバコのせいではなく、この戦いから来るストレスが原因である。

JR東日本は、既に新幹線などを全面禁煙にした時に提訴しているし、敵という認識を持っているが、駅のプラットフォームも禁煙にするという。これまで、小田急や京王で駅員とやりあってきたが、今度はJRの職員とやりあうことになるのだろうか。もうほとんど、どこへ行っても禁煙なので、外出も億劫になってきたが、条例が施行されたら、神奈川県へは行かないつもりである。

松沢とか田中康夫とか橋下徹とか、知事になると独裁権力の印のように禁煙を言い出す者が多い。なぜこういうことになってしまうのかということを考えて、なるほど松沢はかつて、夜間外出禁止令を出そうとしたような知事だから、ファシスト的傾向があるのかもしれないが、そもそも彼らがしばしば用いる、アンケートだのパブリックコメントだのというものが、信用ならないものなのである。たとえば、一九六〇年の安保改定の時の学生デモを考えれば分かるが、岸信介首相は、「声なき声が聞こえる」と言った。それと同じで、ヒステリックな禁煙・嫌煙運動家は、指導しているのは男でも、支えているのは恐らく専業主婦という、暇な階層である。今なお喫煙者は多いが、その多くは三十代から五十代の、働いている男たちである。忙しい彼らと、暇な専業主婦と、どちらがその種のアンケートやらパブリックコメントやら、新聞社への抗議運動やらをやりやすいか、言うまでもない。

要するに禁煙ファシズムというのは「専業主婦ファシズム」であり、あるいは「プチブル・ファシズム」なのである。嫌煙派に多いのは、プチブル階層の専業主婦であろう。この階層は、今回禁煙とされた居酒屋だのパチンコ店だのには、あまり行かない。あるいは電車に乗って毎日通勤したりはしない。いや俺は違うぞと言う者もいるだろうが、もちろん例外はある。

私は数年前に、女を批判するような本を書かないかと誘いを受けたことがあるが、もうそんな時代ではないだろうと断った。その編集者は、禁煙ファシズムも女が推進しているのではないか、とも言ったし、『劇画ナックルズ』が私の禁煙ファシズム批判をマンガにしてくれた時も、プチブル風のおばさんが、禁煙ファシストの代表として描かれていたが、私が往々にしてぶつかっている、言論を行う禁煙ファシストは、男なので、どうなのかなあと思ったものだが、確かに裏で支えているのはこうした階層かもしれない。

となると、フェミ二ストの専業主婦批判に、私はもっと理解を示すべきだった、とも言えるのである。かつて東大院生時代に、私に内容証明を送ってきた宿敵・澁谷知美というのは、現在、東京経済大学専任講師で、どうやら嫌煙家らしいが、研究室が禁煙になった時に、私としては嬉しいが、議論もなしにこういうことになるのは疑問だ、と書いていた。宿敵といえど、そう考える知性は大切だし、この一点で私は澁谷を評価するにやぶさかではない。専業主婦といえば、むしろフェミ二ストとは敵対的だった林真理子すら痛罵していたことがある。

思うに、禁煙ファシストという人種には、何か自分の現状に不満を抱いている人が多いのではないだろうか。そういう者らが、たまたま非喫煙者である場合に、不満をぶつけ、いじめる相手を見つけたとばかり、禁煙ファシズムに走るのだろう。これは、構造としては、小林よしのりが描いたことのある、貧しいお婆さんが、美貌の女性を嫉妬して、あの人は被差別民だ、などと言うのに、あるいはヨーロッパの貧しい者が、裕福なユダヤ人を憎むのに、またはプア・ホワイトと言われる米国の白人が、黒人を差別するのに、少し似ている。違うのは、彼らがそれほど貧しくはないということだろうか。

典型的な禁煙ファシストとしての専業主婦像を描くなら、二、三流の大学か短大を出て、わりにすぐ結婚して子供もでき、三十、四十となって子供も独立し、仕事を持っていれば充実した人生だったのではないかという不満が鬱積し始め、たまたま非喫煙者であったために禁煙運動にのめり込んだ、と、そういうタイプではあるまいかと思う。

あるいは男で、かつては喫煙していてやめた者のファシストぶりはほとんど病的というほどのものがあり、以前私は、やめたことで高みに立ったような気になるからだろう、あたかも宗教に入った人間のように、他人をも教化、折伏したくなるのではないかと述べたが、存外もっと単純に、人が吸っているのを見ると自分もまた吸いたくなるとか、何年たってもニコチンの禁断症状が抜けず、それがヒステリーへと繋がっているのではないか。あるいは、たまたま自分が非喫煙者であることから、愉快犯的に、おもしろがって「いじめ」に加わっている者も少なくないようだ。

さて、ここで、禁煙ファシズムを批判する側の人たちが、次第に「沈黙」していくさまにも触れたいと思う。これは、今まで書いたことがなかった。「内ゲバ」は避けたいと思ったからである。私はかつて、そういう中の一人である大学教授に「共闘」を呼びかけたことがある。しかし彼の返事は、もっと面白いことがあるから、という拒否であった。また別のそのような一人には「禁煙ファシズム批判の大学教員」の集まりを作らないかと呼びかけたことがある。だがこれは返事が来なかった。また、そのような本を書いた医師にメールをしたこともあるが、ひどく消極的で、私の質問にも曖昧にしか答えず、私とのやりとりを避けているようなものが感じられ、遂に最後は返事が来なくなってしまった。

別段、治安維持法がある当時、社会主義を唱えたら逮捕されるということがあるわけではない。しかし、医師のような地位にあると、どうやらそんな本を出したりすると「左遷」されたり冷遇されたりするらしい。文系の学者であればそんなことはあるまいが、何しろ世間が、新聞の偏った報道によってタバコは悪だと信じ込まされているから、保身のために黙ってしまうのである。むろん私とて、その圧力はひしひしと感じている。特に、大学の専任教員でもない私は、近ごろ新聞からは敬遠され、原稿の依頼も乏しくなってきているのは、必ずしも禁煙ファシズム批判のせいだけではあるまいが、このような現状では、私を雇う大学はあるまい。

近ごろの日本における「こうしておいたほうが無難」ファシズムというのは凄まじいものがあると言っても過言ではない。たとえば「看護婦」というのを、使用禁止用語か差別語だとでも思っているのか、新聞では「女性の看護師」などと書くし、小説を読んでいても「同性の看護師」などと書いてある。単に法令上、看護婦と看護士を統一して看護師としただけであって、女性の看護師を看護婦と呼んではいけないなどとは誰も言っていないのに、である。

ここで恐ろしいのは、それが自発的盲従になっていることで、たとえば「看護婦」と書いたために抗議が来たなどということがあれば、議論ができる。しかし、別にそういうことすら起きていないのに、言われる前から合意を作って、従ってしまうのだ。むろん、そういうことは過去にも、放送の世界ではよく起きていたことだが、それが一般国民にまで広がっている。「看護婦」と言ってはいけないなどと政府が言ったら、紛れもない憲法違反であり、国の言語統制になってしまうのに、それを理解していないのだ。

あるいは「個人情報保護法」にしても、成立前はずいぶん反対する人がいたものだが、できてしまうと、存在するものは正しいとでも思うのか、むやみと勘違いして、小学校の電話連絡網が作れないなどというバカげたことが起きたのはよく知られているが、それ以外にも、二言目には「個人情報」などと言い出す者があとを絶たない。一個人が一個人に誰それの住所を教えることなど、法令が禁じているわけではないのに、あたかもそれをすると逮捕されるかのように勘違いしている者が多いのである。

もっとも、二〇〇三年の健康増進法施行当時は、本当に喫煙は他人を害する行為だと思っていた者がほとんどだったように思うが、今ではこうした規制への反対意見があることは常識になっている。それだけでもよしとするか、という気もする。

小谷野敦:東京大学非常勤講師
比較文学者
学術博士(東大)
評論家
禁煙ファシズムと戦う会代表
2009/02/24