紫煙を楽しむ

紫煙を楽しむ

川原遊酔(かわはらゆうすい)の「紫煙を楽しむ」
異文化への寛容性

以前にも、このシリーズで紹介したとおり、「文化」の定義は、千差万別ですが、筆者としては、「文化とは、一見不合理にみえても精神の安らぎを与えるもの」との司馬遼太郎の簡潔な定義を推奨しています。

一般に、文化が異なると、お互いに理解し合うことは、かなり困難になります。ちょっとした文化の違いが当事者同士だと余計に大問題になる傾向にあります。

例えば、国が異なると、言語、風俗習慣、衣食住などが異なるため、理解しにくくなります。日本とその隣国の韓国の場合でも、本来は、人種としても遺伝学的に近いはずですし、かなり近い文化を有しているはずですが、両国間の異文化理解は容易ではありません(写真参照)。韓国では、「目上の人の前では、たばこを吸わない」という文化(日本にはない文化)が今でも残っているようですが、これは、どうやら儒教の考え方が影響しているようです。

また、イスラム教とキリスト教のように、宗教が異なると、国際的な衝突が起こり、悲惨なテロ事件も勃発しています。日本人が宗教について問われると、大部分の日本人が「無宗教」と答えるか、「仏教」か「神道」と答える傾向にあるようですが、無宗教か多神教の日本人にとっては、イスラム教文化とキリスト教文化の衝突の問題は理解しづらい問題でもあります。

嗜好品の習慣が異なる場合でも、無用な争いが起こっています。酒を飲む人が飲まない人に酒を強要したり、その逆に、酒を飲まない人が飲む人を忌み嫌うという状況も頻発していますし、たばこを吸わない人が吸う人を遠ざけるという状況も頻発しています。

これらの状況は、異文化を理解し合うという基本的スタンスが欠けているために起こる現象といってよいでしょう。

では、どうしたらよいのかは、明らかです。すなわち、自分の文化を大切にしつつ、異なる文化に対して理解してみようとする気持を持つという「寛容性」が異文化理解につながります。人間性尊重の観点から、異文化への「寛容性」を培う努力こそ、今や人類に求められているのです。

今後、イスラム教文化とキリスト教文化の衝突を回避し、お互いに理解し合うための「寛容性」が、国際的にも優先順位の高い課題です。一方、たばこを吸う人々と吸わない人々が理解し合う「寛容性」の精神と行動も大切な課題になってきています。そのためには、相手の立場を思いやりながら、作法をわきまえるという精神・態度が常に裏打ちされていないといけません。「異文化への寛容性」が求められていると痛切に思うこの頃です。

川原遊酔(かわはらゆうすい)