紫煙を楽しむ

紫煙を楽しむ

川原遊酔(かわはらゆうすい)の「紫煙を楽しむ」
改めて疫学の限界を問う

 「公共の場の禁煙で心臓病減少」との新聞記事が、本年1月15日付の産経新聞などに掲載され、愛煙家は、ギョッとしたのではないでしょうか。

記事の要点を紹介すると、公共の場や職場を禁煙にした法規制すなわち受動喫煙の法規制で心臓病が大幅に減少したとの海外の研究報告をとりまとめた結果が、日本禁煙学会理事の藤原久義兵庫県立尼崎病院長らによって学会誌に発表されたというものです。それによると、5種類の海外の研究報告を引用しているので、以下に掲げます。

最初の報告は、2004年の英医学誌「ブリテイッシュ・メデイカル・ジャーナル」に発表された米モンタナ州ヘレナ(人口6万8140人)の事例として、公共の場と職場を禁煙にする条例が2002年6月に施行され、同年12月に停止されたが、この間の心筋梗塞の入院は24件で、前後の同期間の平均40件より4割少なかったというものです。

二番目の報告は、2006年に、米コロラド州プエブロ(同14万7751人)で禁煙法施行の前後1年半の心筋梗塞発症率を比較した結果が米医学誌「サーキュレーション」に発表され、プエブロでは発症が27%減少したが、施行されなかった別の地区では変化がなかったというものです。

三番目の報告は、2005年1月に公共の場の禁煙法が施行されたイタリアでは、ピエモンテ州(同約430万人)でその後5ヶ月間に心筋梗塞が前年比11%減であり、このうち喫煙率低下などによる喫煙者本人の減少分は0.7%と推計され、主に受動喫煙が減ったことが全体に影響しているとみられているというものです。

四番目の報告は、2004年3月に世界で初めて法律で職場を全面禁煙としたアイルランドで、導入後1年で南西部の公立病院に心臓発作で入院した患者が11%減というものです。

最後の報告は、英スコットランドで、2006年3月に公共の場が全面禁煙となり、それまでの10年間は年3%のペースで減っていた心臓発作の入院患者がその後1年間で一気に17%減少したというものです。

上記の報告は、いずれも、「公共の場等の禁煙」と「心臓病の減少」との関連性を指摘している疫学報告であり、後述のような問題点があります。ところが、新聞報道では、「受動喫煙の法規制で速やかに予防効果が出ることが立証された形」との記事にあるように、「公共の場等の禁煙」と「心臓病の減少」との間に、いかにも因果関係があるかのようになっています。

筆者は、『紫煙を楽しむ』シリーズ5の「死亡率は100%」において、疫学上の推計値によって個人の疾病罹患原因を判定することはできないなどの疫学の限界について既に指摘したところですし、上記の疫学報告を鵜呑みにする読者は少ないとは思います。しかしながら、最近、この種の疫学報告の報道があまりにも多いので、今回、以下に掲げるような問題点を指摘しつつ、改めて疫学の限界を問うことにしました。

最初の問題点は、受動喫煙の法規制で心臓病が減少したとする報告のみを選択した「選択バイアス(selection bias)」が想定されることです。いわば、受動喫煙の法規制を行う上で都合の良い報告だけを抽出して発表したに過ぎないという可能性です。

第二の問題点は、医学的報告に多い傾向にある「公表バイアス(publication bias)」です。つまり、『影響あり(positive finding)』の報告の場合に、研究者も学会発表する気になる上、医学雑誌にも受理されやすいが、逆に『影響なし(negative finding)』の報告の場合だと受理されにくいというバイアスであり、今回引用されている5種類の報告にも公表バイアスが存在する可能性があります。

第三の問題点は、調査対象数が数十例と少ないか、%でしか統計調査がないので、別の時期に統計を取ると、逆の結果が出かねないという点です。

実は、良心的な公衆衛生学の教科書には、「疫学には、偏り、交絡、偶然性がある」あるいは「一般に、データから関連性が観察されても、直ちに因果関係に結びつけられない」と記載されており、良心的な医学者は、疫学の限界を認識しているのです。今回引用されている疫学報告において、どのように、偏り、交絡、偶然性の観点からの検証が行われているかは明らかではありません。

蛇足ながら、三番目のイタリアの報告で、「心筋梗塞が前年比11%減であり、このうち喫煙率低下などによる喫煙者本人の減少分は0.7%と推計され、主に受動喫煙が減ったことが全体に影響しているとみられている」とされていますが、仮に百歩譲って受動喫煙の影響があるとした場合、受動喫煙の最大の被害者(?)は、喫煙の都度、環境中たばこ煙(ETS)に曝されている喫煙者本人であるはずであり、それよりも受動喫煙の少ない非喫煙者の方が心筋梗塞の減少効果が大きいとは、なんとも合点(がてん)のいかない報告です。

上記のような問題点があることから、今回の疫学報告では、受動喫煙の法規制で心臓病が減少したとは言い切れないこと及び改めて疫学には限界があることについて指摘しましたが、読者におかれましては、この種の疫学報告の報道を読む際に、十分留意していただければと思います。

川原遊酔(かわはらゆうすい)