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追悼 内藤幸太郎さん

青羽芳裕

10月28日、日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の創立メンバーであり、銀座 菊水会長であった内藤幸太郎氏が逝去なさいました。

内藤氏は息子さんの裕幸氏に社長を譲った後、会長に退かれました。足に不具合があると伺っておりましたが、関口宏さんのテレビ番組で取材を受けた際には闊達にお話をなさっていたので、足さえ治ればまたお会いできると思っておりました。

ただ、その後骨折をし、今年の夏にご自宅に伺った時には、真夏と云う事もあり、やや健康状態を害された様子でした。とはいえ、まさか、鹿児島で第39回全日本スモーキング選手権大会が行われた、その日にお亡くなりになってしまうとは思いもよりませんでした。

ご存知の通り、銀座 菊水は明治36年創業のパイプ・煙草・喫煙具に関する老舗であり、多くのパイプ・スモーカーの聖地とも云える場所です。菊水の歴史は日本のパイプの歴史と云って良いのかもしれません。

JPSCは今から45年前の1967年に設立されました。創設の中心は故岡部一彦氏でした。岡部一彦氏と菊水の内藤幸太郎氏を軸にしてパイプクラブが出来た、そう言って良いでしょう。そして、会員番号1番が内藤氏でした。そこに多くのパイプ・スモーカー達が集いました。

JPSCが、当初、例会に使用していたそば処・銀座「よし田」は、内藤氏のお母様と銀座「よし田」の女将とが仲が良く、その関係で貸して頂いたと聞いております。

今年の夏に鵠沼のご自宅に伺った際、内藤氏は「結局、JPSCが残ったんだよ」としみじみと語っておられました。

日本専売公社の肝いり、いわば官営で作った日本パイプ・クラブは消滅してしまったが、JPSC設立後は、日本パイプクラブ連盟設立、そして国際パイプクラブ委員会加盟と活動が拡がったと云う主旨でした。

これには、少し説明が必要かもしれません、日本パイプ・クラブは、戦後日本専売公社が作った組織で石黒敬七、徳川夢声、辰野隆、式場龍三郎、渡辺紳一郎、玉川一郎等の著名人の方々が加わっていました。むしろ文化人の集まりと云った方が良かったかもしれません。その事務局を担っていたのが幸太郎氏の父親長一氏でした。幸太郎氏は、この時父親の仕事、日本パイプ・クラブの事務局の仕事を手伝ったと語っておられました。

その意味では、幸太郎氏はこの二つのパイプクラブに関わった唯一の方でした。もっとも、より積極的に関わったのは日本パイプスモーカーズクラブの方です。

夏に伺った時、内藤氏から日本で行われた最初のロング・スモ−キング・コンテストは兼高かおるが世界一周の記録を立てた際に、その祝賀会場で行われたとの思い出話がありました、勿論、日本パイプ・クラブの時代です。

ウイキペディアによれば、1958年に兼高さんはスカンジナビア航空が主催した「世界早回り」に挑戦し、73時間9分35秒の新記録(当時)を樹立したとあります。

日本パイプ・クラブがロング・スモーキング・コンテストを行った際の記録が、自由国民社の『現代生活のバイブル No31( 酒飲みとタバコ党のバイブル』に記載されていて、それには日付が昭和29年1月31日で、参加者は14名、優勝は渡辺紳一郎氏で74分23秒(3.3g)と記載されています。

もちろん、このコンテストには内藤氏のお父様の内藤長一氏も参加しています。内藤幸太郎氏は昭和33年から菊水の仕事についておられるので、それ以後でのロング・スモーキングと云う事になるのかもしれない。

第1回全日本ロング・スモーキング・コンテストのことは忘れる事ができません。当時のJPSCは遊び心が溢れた人が多く、勿論内藤さんもその一人でした。

会場は現在共同通信の本社になってしまった、銀座東急ホテルの地下1階のバーでした。内藤氏と一緒に名札作りをした記憶が鮮明に甦ります。今は亡き菅沼清二氏、日航御巣鷹山の事故で亡くなった石野喜一氏も一緒に手作りの作業でした。ただただ、今までやったことの無いことを始めるのだと云う熱気と遊び心に溢れていました。

数年前の年末だったと思いますが、内藤氏から頼まれごとがありました。正月の箱根駅伝に関わる事でした。学生時代に母校が箱根駅伝に出場し、その練習のため出場選手に自転車で伴走したのだと云うのです。それが、いつだったか調べて欲しいと云う要請でした。

 調べてみると、内藤氏の母校の旧制神奈川師範学校(現、横浜国立大学)は第23回大会(1947年)、第24回大会(1948年)、第25回大会(1949年)に出場していました。その時の紙面をお届けし、その記事を懐かしそうな眼差しで読んでおられた横顔を想い出します。

私が、JPSCに入会した1971年はJPSCの事務局は菊水でした。当時大学生であった私は当然のように雑用係で、週に一回必ず菊水に通う事になりました。まだ、菊水が立て直す前のビルで、自販機も無い時代でした。内藤氏のお母様が入り口に毅然とした姿で立っておられたことが脳裏に焼きついています。店の奥から裏に抜ける道があったように記憶しています。店を建て直す際、銀座消防署の近くの借り店舗に引っ越しをするので、その荷物運びを手伝ったのが、昨日の様な気がします。

内藤氏とお話をする時は、いつもショーケース越しでした、内藤氏は背がはるかに高いので、私は見上げる姿勢になります。「戦前の大福帳が出て来て、昔のドイツ製の葉巻がものすごく高価だった」とか、「昔は東京駅の中に菊水の支店があり、東京駅にタバコを届けた」とかの話しを伺いました。

店ではいつも上着を脱いでおられましたが、店の外でお会いする際には、いつも中折れ帽に背広姿で、銀座の旦那衆の趣がありました。内藤さんから伺ったお話は銀座に関しての事が多かった様な気がします、その意味で銀座が大好きだったのだと思います。

内藤氏から銀座通連合会が出版した『銀座通連合会90年の歩み』と云う本を頂いた事がありました。この本の後ろに資料として、大正10年から平成20年までのそれぞれの通りに沿って店の名前が記されています。菊水は銀座通6丁目西側に位置しますが、大正時代から続いている店は本当に少ない、菊水はその意味では希有の店だと思います。

内藤幸太郎氏の偉業は、お父様から受け継いだ菊水と云う老舗を息子さんの裕幸さんに引き継いだ事にあると思います。

在りし日の内藤幸太郎氏の笑顔を思い浮かべ、多くの感謝と共に、ご冥福をお祈りいたします。

(JPSC事務局長代行、日本パイプクラブ連盟常任理事)