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内藤幸太郎さん追想

日本パイプスモーカーズクラブ(JPSC)の創立メンバーの一人(会員番号1番)であり、我が国のパイプ喫煙の発展に多大な貢献をされた銀座菊水会長の内藤幸太郎氏が、去る10月28日に逝去されました。享年81。心よりご冥福をお祈りします。

内藤さんはご尊父の急逝を受けて教育の世界から転進してパイプの老舗、銀座菊水の経営に携わるようになられました。長身白皙でいつも温雅な笑みを欠かさず、まさに絵に描いたような気品のある紳士でした。パイプがとても似合う方でした。

在りし日の内藤さんを偲んで、大勢のパイプ仲間から追悼文が寄せられましたので、ご紹介します。 

日本パイプクラブ連盟事務局


内藤さんを偲ぶ

梶浦 恭生

内藤さんに初めてお目にかかったのは昭和40年(1965)ではないかと思います。その頃、私の勤め先のグループ会社に内藤さんの義弟が勤務されていましたが、ある日、彼の前でパイプを取り出したところ、君はパイプを喫うのか、それなら銀座の菊水の義兄を紹介しようという話となり、内藤さんに出会ったというわけです。パイプタバコは東京駅の大丸で買っていましたが、それからは一寸敷居が高いと思っていた菊水に鞍替えしました。

あるとき菊水に行ったところ、内藤さんはめずらしく早めに出かけるところでしたが、ひまならついて来いと言われ、行った先が「よし田」でした。その日は丁度JPSCの例会の日だったわけです。当時のJPSCの例会は梁山泊を思わしめる様相で、「よし田」の畳の部屋でパイプを銜えとぐろを巻いていて、まだ若く新参の小生は次の間で小さくなっていました。会合の途中、奥の方で松山さんと内藤さんが何か話をしていたと思ったら、決ったといわれ、何のことか良く判らないでいるうちに、JPSCのメンバーになってしまったわけです。

パイプクラブが何かも良く判らなかったので、内藤さんに聞きますと、彼はいろいろと話をしてくれました。しかしその多くは以前あった日本パイプクラブの話やJPSCの発足当時の話や戦後のパイプ事情の話が主で、肝心のJPSCや会員の誰それについてはその内わかるよといわれ多くを語りませんでした。当時はJPSC内部にも佐々木派と菊水派があったとも言われますが、内藤さんは不偏不党を貫かれていたようで多数派工作などは一切なしで毅然としておられました。蛇足ですが、いろいろと聞かされた話は、後に内藤さんがJPSCの例会で戦後のパイプ事情とJPSCの発足の経緯について語られた原稿をまとめる際に大変役にたちました。

JPSCがロングスモーキングコンテストを正式に始めた時、一張羅を着込むようなつもりで、義父からロンドン土産にもらったDunhillの銀巻きパイプを持って参加して6位に入賞、喜んで菊水に行ったところ、内藤さんから、そのパイプをコンテストに使うのは勿体ないから止めなさいといわれ、これにしなさいとスリーBだったと思いますが、一本薦められました。長い間のお付合いの中で、パイプを買えと言われたのは後にも先にもこれ限りでした。

田舎の工場から出てきた身としては、銀座の経営者は別世界の人に思えましたが、スマートな体型とひょうひょうたるお人柄でいつ行っても笑顔で迎えてくださる内藤さんとは、年齢も近く、ほぼ半世紀に亘るお付合いとなったわけです。このように早く往かれるとは思いもよりませんでした。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

日本パイプクラブ連盟会長・JPSC会員


「メンバーシップ」と「スポンサーシップ」

村上 征一

銀座菊水の内藤幸太郎さんは、常に「メンバーシップ」と「スポンサーシップ」を体現されていた方だと思う。

私がJPSC入会を許され、比較的熱心に参加していた昭和40年代後半は、創立メンバーである内藤さんは、何故か例会出席も少なく、会合でも物静かで目立つ存在でもなかった。それでいて、裏方では世話人の方々の相談に乗り、会場手配などの手助けをされていた。

当時のメンバーは多士済々で、会の運営などで意見交換すると様々な意見が出されるが、内藤さんは決して商売っ気を表に出さず、会の決定を素直に受け入れていた。それでいて、会で決められた役割は、きちっと果たされていた。

第2回全日本パイプスモーキング選手権大会は、当時の日本専売公社の葵会館(東京・虎ノ門)2階の大会議室で開催されたが、JPSCメンバーはみんな選手としての参加を希望しているため、司会役を引き受けようという会員がおらず、苦慮したが、結局、内藤さんが快く引き受けられ、あの飄々とした持ち味で見事に務められた。

着火の合図、区切りでの経過時間、リタイア者が出たらその人に応じたアナウンス等々、実に司会が的確だった。この時は、まだ司会者の台本は無く、内藤さんの考えのままに大会は進行したが、第3回大会以降、全国のパイプクラブから参加者が集まるようになって、しっかりした司会には台本が必要になり、内藤さんの司会ぶりが大いに参考にされた。

なお、この第2回大会で優勝し、全日本選手権大会チャンピオンになったのが、現JPSC代表世話人の関口一郎さんである。(ちなみに、この大会での最初のリタイア者は、春山商事の春山徹郎現社長だった)

創立以来、亡くなるまでメンバーでいながら、例会で上位入賞を目指すことも、会の中で商売っ気を出すこともなく、それでいて会の運営をしっかり支援されていた。

JPSCが、半世紀近く命脈を保っているのは、こうした「メンバーシップ」と「スポンサーシップ」を体現している方々のお陰ではなかろうか。

内藤幸太郎さんに感謝申し上げると共にご冥福をお祈り申し上げます。

合掌
JPSC会員


「内藤さんを偲んで」

森谷周行

私が入会した頃はよし田の三階で侃侃諤諤かつ喧喧囂囂、ジェントルマンの内藤さんの声は余り記憶に残っていない、と言うより店が忙しくてお顔を出すことが少なかったのかも知れません。

その中で印象に残っているのは、「屋根の落葉がひどいので樋を掃除したら、1910年台のダンヒルが出てきましてね」という独白。一度見たいと想う内に幾星霜、幽明処を異にしてしまいました。ご冥福を祈ります。

日本パイプクラブ連盟理事長・JPSC会員


「内藤さんの思い出」

丹波作造

堆朱のタンパーは漆職人の工房を廻って、漆を練る板の使い古しを引き取って造る等、色々専門的な事を教えていただきました。ご冥福を祈ります。

タンパー作家


「故 内藤幸太郎 銀座菊水会長を偲ぶ」

田中 需

学生時代、銀座を物珍しげに歩いていて、ふと菊水のお店が目に留まった。

パイプも何も知らない頃の話である。なんだか周りと違ったカッコイイ雰囲気のお店なので、好奇心旺盛な田舎者は何を売っているかも知らないまま覘きに入ったわけである。一部始終を見ていたであろう紳士が寄ってきていろいろとやさしく説明をしてくれた。今から思えば、これが内藤さんとの最初の出会いである。

飛行機に乗るようになって、機内で喫うパイプを捜していた。この頃になるとさすがに銀座菊水の名声は知っていた。東京出張の折に店に立ち寄った。小生の下手な物言いをまじめに解釈して一生懸命探して希望するものに近い形状のパイプを出してくれた。飛行服のポケットに入れても邪魔にならないようなボウルがヒシャゲタ格好の小ぶりのものであった。この時対応してくれた人もなぜか同じ人であった。安物買いなのによくもまあやさしく丁寧に付き合ってくれたものである。

日本パイプクラブ連盟の役員になって、正式に挨拶に行ってびっくりした。あの温厚で物静かな紳士が、ここのトップであった。それからは、お願いごとやら何やらで菊水のお店には足しげくお邪魔したが、内藤氏に直接会ったのはホンの二、三回であった。

会えば、あの素晴らしい笑顔(藤沢カトリック教会での葬儀の際に飾ってあった写真の笑顔である)で応対してくれた。連盟としては迷惑をかけてばかりなのに、我らの活動に大きな理解を示していただいたよき協力者であった。何も言わずだまって連盟の活動をやさしく見守っていてくれた。

追悼の念、誠に大なりである。ご冥福をお祈りいたします。

日本パイプクラブ連盟前会長・六本木ローデシアンパイプクラブ会員